コミュニタリアニズムと世界資本主義(高杉公望)                           目次ページに戻る

 『アソシエ21 ニューズレター』20039月号に青木孝平氏の「マルクスはアソシエーショニストか?」という論説が掲載された。そこで青木氏は、マルクスの中にはアソシエーショニストの側面と、それに真っ向から否定的な側面とが同居しているとしている。わたし自身もいまさら十九世紀にマルクスがいだいていた共産主義の構想がアソシエーション論(市民社会論)を基礎としていたからといって、それがそのまま現代的意義をもつとはかんがえていない。ましてや、それにアソシエ21という学術的団体のネーミングがちなんでいるからといって、そこに『日経アソシエ』という誌名以上の意味があるとも思っていない。以下で述べるのは、あくまでも青木氏の見解にたいする内容上の批評である。

 

 青木氏が、マルクスはリベラルなアソシエーショニズム的な発想を嫌悪し否定していたとする典拠として挙げているのは、マルクスがまだ共産主義者にすらなる前の『ライン新聞』時代の論説や『ユダヤ人問題に寄せて』であり、共産主義者になりたての時期の「フォイエルバッハ・テーゼ」における「人間は実際には社会的諸関係の総和であるという命題にすぎない。さらに、青木氏によると、『資本論』第一巻でマルクスは、独立自存の個人が存在しそれが自由に契約をむすぶということは、資本家的商品経済の流通表面における商品所有者と貨幣所有者の自由な交換という現象から普遍化されたイデオロギーにすぎないと批判しているとする。だが、当該箇所は、労働力商品も含む商品と貨幣の交換の流通表面においてのみ「自由、平等、所有権、そしてベンサム」が成り立つが、ひとたび生産過程へと降りてゆけば、そこには資本家と労働者の階級関係が隠されているという文脈での批判であった。この批判自体からは、マルクスが市民社会的な自由・平等そのものに対して否定的なのか肯定的なのかはただちに出てこないのである。

 

 このように青木氏はマルクスのテキストを機械的に切り貼りして、自説に都合のよい文言だけを引っ張ってきている。このような読み方は、かつての護教論的解釈論の過剰な氾濫の裏返しであり、マルクスをアリストテレスやヘーゲルと同様の偉大な古典として遇する態度にはまだ程遠いものといわざるをえないのではなだろうか。

 

 解釈論的研究はすでに膨大にあるだろうが、ようするにマルクスは、近代資本主義的ブルジョア社会において徹底的に自由な個人に分解された疎外態ないし物象的依存関係の状態を通過して、はじめてより高次な共同性をもった人類社会を実現できると考えていたとみるのが自然であろう。このような考え方は、マルクスにおいて語彙をかえながら初期・中期・後期のテキストに終始一貫している。このより高次な共同性の具体的なあり方として、自由な諸個人の連合=アソシエーションなるものが想定されていたわけである。

 

 しかし、マルクス解釈論はともかくとして、重要なのは青木氏によるコミュニタリアニズムについての問題提起である。青木氏によると、サンデルらのコミュニタリアンはリベラリズムの市場個人主義を「負荷なき自我」と呼んで批判し、自由とアイデンティティの共有を可能にする制度の促進を提起しているという。それは、リベラリズムの普遍的正義論に対して、共同体ごとに異なる善の多様性を提起するものであり、家族・地域・階級・民族など多様な共同体への重層的帰属とそれぞれの価値の尊重を求めているものである。

 わたしもこのような問題提起には積極的に賛意を表したい。そのうえで、あえて青木氏のコミュニタリアニズム受容のあり方にかんして異論を挿んでみたいのである。

 

 青木氏によると、コミュニタリアニズムというのは、「アソシエーショニズムとは逆のベクトル」のものとして再評価されるべきものだとされている。その際、青木氏は、「わが国においてアソシエーショニストとしてのマルクス像を打ち出そうとするならば、宇野および廣松の学説との対決が避けて通れない」として、宇野弘蔵を引き合いに出している。しかし、宇野を引き合いに出すならば忘れるべきでないことがあったはずである。それは日本資本主義の特殊性の段階論的な把握という方法である。

 

 青木氏がいうようにコミュニタリアニズムは英米系の思想的系譜から生まれてきたものである。それはまさに、徹底的に個人への分解が進んだ最先端の資本主義社会において登場してきた思想なのである。それゆえ、「コミュニタリアニズムは決して単なる保守的復古思想ではない」といえるのは、それがまさにイギリス、アメリカの現実的基盤を前提として生まれてきたものだからにほかならない。だとするとそれは、大陸ヨーロッパや日本やアジアにそのままあてはめることが可能なのであろうか。

 宇野段階論がおしえるところでは、十九世紀中葉イギリスの世界資本主義(パクス・ブリタニカ下のグローバリゼーション)の産物として、周辺資本主義諸国には中心部とは対照的な発展が押し付けられたのであった。すなわち、前近代的な諸要素といわれてきたものは、じつはほかならぬ「近代」そのものの産物として温存再生産されてきたものだったのである。いうまでもなく同じことは、二十世紀末以来のアメリカ発の世界資本主義(パクス・アメリカーナ下のグローバリゼーション)においても構造的にあてはまる。したがって、現代の日本社会に安易なかたちでコミュニタリアニズムの言辞を持ち込んだ場合に、それが「単なる保守的復古思想」に堕してしまわない保障はどこにもないといわなければならない。

 

 そもそも、はたして青木氏のいうように、コミュニタリアニズムとアソシエーショニズムとは逆のベクトルのものなのであろうか。イギリス、アメリカのように市場個人主義のゆきつく果てにばらばらに解体された諸個人が、自由な意志に基づいて(飽き飽きして)回帰を仮想的にもとめるようになった共同体的な価値理念がコミュニタリアニズムなのである。そうだとすれば、それこそはマルクスの考えた、諸個人へと分解された自己疎外態ないし物象的依存関係を歴史的基盤として−−すなわち、歴史的協働性を負荷として−−、構想されるアソシエーションと同質のものなのではないだろうか。もちろん、現代のコミュニタリアンは、もはや不可能性があきらかとなった、社会的に生産を計画経済的にコントロールしようという十九世紀的な構想を抱かなくなったことは重要な違いである。

 

 かつて宇野理論は、日本社会の後進性とみえるものも金融資本的蓄積様式のもたらしたものであるから、一段階の社会主義革命で一挙的に解消すべきものだと考えていた。そこでは、いったん英米のような個人主義の徹底的な実現を図ったうえで社会主義革命を構想するという二段階革命論(市民社会論、近代化論)は否定されていた。現在でも世界資本主義システムにおける発展の中心−周辺の非対称性という問題をかんがえれば、このような観点は有効であろう。英米とそれ以外の国々では、国家、民族、共同体、伝統、慣習、公共性、市民社会等々といった諸概念は、まったく内容を異にしているという認識がなによりも重要だからである。日本にそのまま英米のような市民社会を、アソシエーションを、と主張しても相変わらず空虚に響かざるをえないのはそのためである。それは、日本で愛国心を、公共奉仕の精神を、という主張の胡散臭さと表裏一体なのである。

 

 同様に、青木氏のようにアソシエーション論とコミュニタリアニズムを正反対のものとして機械的に裁断することの意味するものは、コミュニタリアニズムの名のもとにアジア的な共同体をそのまま横滑りさせ、前近代的な諸要素を温存再生産することにほかならない。それはグローバリゼーションのもたらす前近代的な諸要素の温存再生産への加担であり、いっけんグローバリゼーションに抵抗しているようにみえて、じつはグローバリゼーションそのものなのである。

 

 また、青木氏は、コミュニタリアニズムを論ずるにあたって廣松渉の共同主観性、関係の第一次性の哲学にも言及している。そこにおいては、自由主義的な個人主義を否定する哲学として、廣松哲学が参照されているといってよい。しかし、個人主義とはどのように考えられるべきなのであろうか。その点が従来、混迷をきわめていたのである。

 

 まず、規範的・ゾルレン的な主張としての個人主義と、方法論的な個人主義とを区別しなければならない。こう説いたのは一世紀も前のシュンペーターであった。彼によると、規範的・ゾルレン的主張において個人主義・自由主義に賛成か反対かということと、社会分析の方法論において個人の行動から社会・経済のメカニズムを分析することとは、それぞれ独立的なことだということである。

 

 だがもう一つ、シュンペーターがふれていなかったレベルがある。それは、人間的・社会的な対象についての実証的・ザイン的な認識レベルの問題である。つまり人間的・社会的な対象が個人主義的なものとして構成されているかどうかというレベルの問題である。

 

 したがって、個人主義を問題にするときには、方法論的個人主義、規範的・ゾルレン的個人主義、実証的・ザイン的個人主義の三つの次元を区別して論じなければならない。この点が明確にされてこなかったので、従来の議論は不毛な混乱から抜け出られなかったのである。

 

 社会構成は自由主義、個人主義を理念とすることが望ましいと主張するのは、一つの政治的・規範的・ゾルレン的な主張である。それに対して、社会性の負荷を受けた個体も、身体を通して行動するときには個体的な身体として行動している。したがって、この側面から社会のメカニズムをとらえようとする方法論も必要となる。それが方法論的個人主義である。

 

 他方、社会哲学の実証的・ザイン的なレベルにおいては、人間存在の個体性が問題になる。人間存在の個体性というものは、経験的に観察するならば、つねに社会的なものとしてあることはいうまでもないことであろう。いかなる個体であっても、親から生まれ家族集団のなかで成長し、社会の中で労働と消費と公共的な諸活動を営む/営まない存在である。個体が社会的な存在であるということは自明なことなのである。それは、封建的な共同体の中であろうと、原子化された諸個人の社会の中であろうと、そのレベルではかわりがない。

 

 ところで、実証的・ザイン的なレベルには、さらに、認識論哲学という領域が存在している。この領域において問題となるのは意識の主観性である。これがまた、経験的な次元と超越論的な次元とがあって、議論が錯綜しやすくなっている。意識の主観性を、経験的な心理現象の次元で考えれば、後期フッサールや廣松渉が考えたように共同主観性として存在しているのは当然といってよい。しかしながら、経験的な意識を意識する、意識を対象化する、超越論的な主観性の次元においては、デカルトがみいだした「我思う、ゆえに我在り」ということにしかなりえないのも当然の話なのである。これを独我論だとか主客二元論だとかいってもはじまらないのである。

 

 このように、さまざまな次元や領域をわけて議論しなかったために、従来の個をめぐる議論は空転してきたのであった。

 

 以上を踏まえればあきらかなように、廣松渉が主張していたように、共同主観性、関係の第一次性といったことは、経験的な次元における意識の共同主観性や、人間存在の社会性・協働性について妥当する考え方なのである。それは、哲学の領域においても、超越論的な主観性の問題にあてはめることは誤りである。また、社会科学の領域においては、社会的個人の行動や機能の分析の場面で持ち出しても(あまりにも自明の前提ゆえに)無意味なのである。ましてや、規範的・ゾルレン的主張としての個人主義・自由主義に賛成するか反対するか、という価値選択の次元に直結することは、次元の侵犯いがいのなにものでもない。

 

 したがって、青木孝平氏のように、廣松渉の共同主観性や関係の第一次性の哲学から、コミュニタリアニズムの規範的な価値選択の議論につなげようとすることは、稔りのない発想であるといわざるをえないのである。

 

 われわれは、宇野理論の一段階「革命」論を継承してゆくべきである。だが、その際必要なことは「革命」の中味の根柢的な再定義である。「労働力商品化の止揚」、すなわち労働市場を基礎とする資本主義的市場経済の廃止というのでは、いかにも曖昧であった。一方の極では、労働市場も含めたすべての市場経済、商品・貨幣形態の廃止のようにも受け取れる。他方の極では、労働保護立法の整備、基礎年金などの社会保険制度、労働組合による労働市場の寡占化、国家による非市場的な所得再分配政策等々によって、十分に「労働力商品化の止揚」がなされたものとも受け取れる。

 

 むろん、前者のように解釈するならば、それはウルトラ・スターリン主義にしかならない。かといって後者ならば、とうのむかしに実現し、いまや市場原理主義とグローバリゼーションにさらされて過去のものとなりつつあるかにみえる一国福祉国家(一国社会民主主義)体制でしかないであろう。その意味では、市民社会論やアソシエーション論、コミュニタリアニズムなどを参照にして、「革命」の再定義についてかんがえてゆくことは有意義なことだとかんがえられる。

 

 現在もとめられているのは、世界資本主義的グローバリゼーションにたいする一段階世界「革命」において、周辺的な大陸ヨーロッパ(仏独も含む)や日本やアジア……の「革命」も構想してゆくことである。それは、一方で、最先端部分においてはコミュニタリアニズム的な価値観に支えられた主体による、世界的な規模での労働保護立法の整備、基礎年金などの社会保険制度、労働組合による労働市場の寡占化、国家による非市場的な所得再分配政策等々の創造的構築でなければならない。それは、国民国家−戦争の止揚と連動する課題である。だが他方では、それぞれの社会が刻印されている歴史的な基盤を踏まえながら、それを最先端のコミュニタリアニズム的な価値観へと発展・止揚させてゆくという課題がある。それらは一体的に提起されなければならないのである。

2003924日+104日第3 増補)

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送